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アーカイブ<第二弾>坪田花恵さん(味の坪田)

カテゴリ:アーカイブ

 終戦後から始まった店舗形態の一つに露店というものがあります。これは、まだ自分のお店を持っていない人たちが、野菜や靴、せんべいなどの売り物を自ら仕入れ、それらを商店街の中や路上で売るようなお店のことをさすそうです。なかには、露店で稼いだお金で自分のお店を出せるようにまでなった人がいるそうです。今回お話しをしていただいた坪田さんもその一人です。

露店の手本は行商人

露店を始めたきっかけは?———
 露店を始めたきっかけは、自分の住んでいたところに野菜などを売りに来ていた行商人です。もともと商売が好きだったこともあって、行商人の姿を見たときに、自分でもやれるんじゃないかと思いました。そして、終戦から少したって、私が40代になった頃から露店を始め、10年間くらい続けました。

<写真:旦過市場>

直接農家から仕入れた新鮮野菜は大人気

露店の一日について?———
 露店の一日は、朝の仕入れから始まります。私は、当時住んでいた志井の農家から野菜を直接仕入れていました。そのあと、列車に乗って旦過まで来て、10時過ぎくらいから店を開いていました。お店を出す際には、移動のしやすさを考え、トロ箱と乳母車を使って店を出していました。お昼になると、旦過市場の中にある飲食店で、天ぷらなんかを食べていました。今では珍しいクジラを食べることもありました。そして、午後の商売をして、他の露店よりも早い夕方の5時くらいにはお店を閉めていました。それでも、売っている野菜は農家から直接仕入れていたので、新鮮で人気があり、いつも完売していました。

仕入れも販売も我流

苦労したことは?———
 露店を始めた当初は、値段のつけ方も仕入れの仕方もわからない状態でした。しかも、誰にも教えてもらえなかったので、自分で商品を仕入れ、自分で商品に値段をつけるなど、すべて独学で販売をしていました。仕入れの際には、周りで野菜を仕入れている人たちと比べて、少しでも高い値段で買わないと売ってもらえなかったので、いつも周りより高い値で買っていました。
 また、当時の旦過市場には、今と同じくらいの店舗が軒を連ねていましたが、その中で、私以外に5~6人の人たちが露店をだしていました。露店を出す場所が、シャッターの閉まっている休みのお店の前のスペースだったこともあり、場所の取り合いで喧嘩になることも多々ありました。私は志井から来ていましたが、他に露店を出していた人たちは小倉北区に住んでいる人たちばかりだったので、次の日に自分がお店を出せる場所があるかどうか、いつも心配しながら帰っていました。

<写真:味の坪田>

露店に立ちはだかる障害

当時一番困ったことは?———
 当時の旦過で露店をしていると、ちゃんと店を構えている人たちが、自分の店の売り上げを奪われたくないために、警察に通報することが多々ありました。それで警察に捕まってしまうこともあったので、露店をだしている人たちは、警察が来ていないか交代で見張りをするなど、互いに協力しながら露店を出していました。

お客さんとの会話が一番

一番うれしかったことは———
 今では旦過市場の中に自分の店舗を構えているのですが、商売を始めた露店時代からのお客さんが今でも来てくれて、「昔はあっちの方でお店出していたね。」などと話しかけてくださります。それが嬉しくて、まだお店に顔を出し続けています。今の人たちは、お店を始めたかと思うと家賃が高いために、すぐに辞めて出て行ってしまいます。でも、そこで辛抱すればやっていけるんです。商売は辛抱です。そうして、今まで続けることができました。

<写真:インタビューの様子>

取材担当:田口晶仁(KTT学生協力員)