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アーカイブ<第四弾>深野有造さん(深野至誠堂)にお話を伺いました

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アーカイブ<第四弾>深野有造さん(深野至誠堂)

~印鑑を作りながら町の変化を見守り続ける~

 

小倉駅がまだ現在の西小倉駅付近にあった時代より前から続く深野至誠堂、大正5年に開業して印鑑や表札などを手作業で作り続けて96年目になります。今回は戦時中から戦後、現在まで移り変わる室町の姿を見てきた深野有造さんにお話を聞かせてもらいました。

 

手作業で作る印鑑には職人の個性が!

印鑑はどのようにして作るのですか?―――

 最初に、印鑑の材料に左文字を直接書いて、荒彫りという作業でいらない部分を削り取り最後に仕上げで細かい部分を削っていきます。材質によって異なりますが、だいたいひとつ作り上げるのに半日、よい材質のものになると丸1日かかることもあり、年間で100本程度作っています。今は、どこも機械を使って印鑑を大量生産していますが、私は絶対に機械を入れません。なぜなら、すべて手作業なので字体が機械にはできない独自の癖のようなものが出てきます。そこを気に入ってくれたお客様がいてくれて、遠方からでも私のつくる印鑑を求めてきてくださるので私は手作りにこだわりたいと思っています。

 

仕事を継ぐ気持ちはなかった!?

この仕事を継ごうと考え始めたのはいつですか?―――

 私は最初からこの仕事を継ぐ気持ちはなかったんです。でも、小学生の時に初めて父親の仕事のお手伝いをしてからはそれが日常になり小学校の高学年の頃には遊びのようなものですが印鑑を掘ったりもしていました。この時、父に細かな技術を教わったわけではなく、簡単な道具の使い方を教えてもらっただけでした。また、兄弟の中で唯一書道を習っていたからきれいな字を書けるのは私だけだったり兄弟の中で大学にいっていないのは私だけだったりと、このようなことが重なり家族の中で私が継ぐものだという雰囲気になってしまい、父親が亡くなった時にもう私しか印鑑は作れなかったので私が継ぎました。

 

仕事をしながら見続けてきた町並み

今と昔では町は大きく変化していますか?―――

 そうですね。父親が大正5年か7年に室町にきて、最初は今の郵便局の近くの時計屋さんの半分を借りて営業していたらしいのですが、現在の家に移ってからは一度も動いていません。こっちに来たのは大正ですが家は、明治くらいから建っているものなんですよ。私が子どもの頃今から60年前くらいは現在と全く違ってなんでも町内にありました。米屋、呉服屋、病院、旅館、ほんとに何でもありました。町内のなかだけでですよ。なので、今の人みたいに車で遠くに行かなくても十分に生活ができました。でも昭和30年代くらいからこういう家は古めかしいから嫌だという人が増えて、木造のモルタルで店の前だけ囲んで見た目の良い、洋風みたいな家に建て替える人が多くなりました。でも、不思議と洋風の家にした人の家だけシロアリにやられてもともとあった古い家は全く被害に合わなかったんです。シロアリの被害にあった人たちは、家を全部取り壊して駐車場にしたんですけど、それらはもともと全部旅館だったんです。旅館には、戦時中には小倉の造兵廠に面会に来る人がよく泊まっていたんです。戦後は商人宿で行商人の人とかが多くとまっていました。その後は段々と変わっていって人通りもどんどん減っていきました。仕事も、この辺は昔、TOTO、ライオン、住友金属など大手企業が多く立地していたので父親がここで仕事を始めたんです。でも、今では小倉駅も移動してしまったから企業の建物も移動してしまいましたし、リバーウォークができてそちらのほうばかりに行く人が多くなったので長崎街道に来る人はもうほとんどいませんね。私が子どものときは、お店が多かったので通りに人が沢山いて挨拶がたえなくて、子どもたちも近くの道で野球とかメンコとかで学校終わりに毎日遊んでいました。そして帰る時になると親が探しにきたり近所の人がもう遅いから帰りなさいと言ったりして近所関係がとてもよかったんですよ。なので今より昔の方が私は、好きでしたね。