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アーカイブ <第6弾> 久留米屋ビルオーナーの高野政子さんにお話を伺いました。

カテゴリ:アーカイブ

 全国初のアーケードとして有名な魚町銀天街。現在は中心街の広い範囲がアーケードで覆われていますが、アーケードは最初からすべて繋がっていた訳ではありません。昭和26年にまず魚町2丁目のアーケードが作られ昭和31年に魚町1丁目、魚町3丁目が建設されました。その後すべての町内のアーケードがつながり商店街全体が一つになりました。

 今回は魚町一丁目にアーケードを作ろうと発案した久留米屋ビルの高野政市さんの長女、である高野政子さんにお話を聞かせて頂きました。アーケードを作った父親を一番そばで見ていて感じたことや苦労話、完成した時の商店街の様子など、当時のお話を伺いました。

 

アーケードを作るには苦労が尽きない

どうやってアーケードは作られたのですか?―――

 

 1丁目にはアーケードがなく、アーケードのあった2丁目にはたくさんのお客さんであふれていました。その状態を見て父親は、1丁目にもアーケードが必要だと言いだしました。それから父は、商店街の店舗を一軒一軒回って店主たちに、アーケードを建設することで商店街にどれだけのメリットがあるかということを説明し、資金を集めました。最初は反対する人がいて資金調達がうまくいきませんでしたが、毎日のように店主のもとに足を運んで交渉をすることで、すべての店舗の協力を得ることができました。

 私は、その時の父親を見て、なにをそんなに必死に頑張っているのだろうと思っていました。でも、夕食の時に父親から聞いた話で印象が変わったことを覚えています。父親が資金集めでお店を回っていると、ほとんどの店主から「高野さんのところは傘を売っているんだからアーケードを作ると傘が売れなくなるんじゃないの」と言われたそうですが、父は「そんなことは関係ない。商店街が発展するには絶対アーケードがいるんだ」と店主たちに言ったそうです。そんな話をする父を見て、父は商売人だなと強く感じました。

 

アーケード建設は正解だった!

アーケード完成によって商店街に変化はありましたか?―――

 

 アーケードが完成したことで、魚町二丁目のお客さんが魚町一丁目にも来るようになりました。また、アーケードが完成した時期と小倉駅が現在の位置に移動した時期が同じだったので、相乗効果で商店街にたくさんの人たちが来てくれるようになって、活気があふれるようになりました。

アーケードにまったく興味がなかった商店街に住んでいる子どもたちは、完成式典でくすだまが割られた時には歓喜の声を上げて喜んでいました。わたしも本当に完成したんだという気持ちが湧いてきましたし、完成させた父を誇りに思いました。

 

完成させた役員の人たちはどのような様子でしたか?―――

 

 これは裏話ですが、当時アーケードを建設するために立ちあがった魚町一丁目の役員たちは、アーケード建設のために奮闘している間も完成してからも「こんなつらいことはするもんじゃない、もう二度とこんなきついことはしたくない」と愚痴をこぼしていたそうです。でも、そんなことを言いながらも、完成した時にはやっぱり彼らが一番喜んでいましたね。

 

個性を持つことが活性化への第一歩

今の商店街をみて昔のほうが良かったなと思うことはありますか?

 

 昔の方が個性を持ったお店がたくさんあったと思います。商店街に来ないと買えないものがあるというこが昔の良かったところです。商店街のこの店にしかこのデザイナーが作った服がおいていない、この店に来たら詳しく商品の説明をしてくれるなど、信頼感や安心感がありました。今の商店街にもこのような個性のあるお店が出てきてくれたら、また昔みたいに活気が出てくると思います。

 

 

次の世代を担う若者に街のためにしてほしいことはありますか?―――

 

 とにかく続けてほしいです。どこの商店街にも同じ悩みがあると思いますが、やはり跡継ぎの問題が一番心配です。跡継ぎがいないという理由で閉店していく老舗を見ると、さみしい気持ちになります。難しいかもしれませんが地元に残って就職をしてほしいと思います。あとは北九州の印象を良くしていく努力をしてほしいですね。北九州は外からみて治安が悪いイメージが強いからそこを変えていってほしいです。北九州のイメージが変わって、もっと北九州の良い所を見てくれるようになればと思います。今の商店街の役員をはじめとして様々な人が、街の発展のためにイベントなどいろいろな活動で頑張っているのでこれからも魚町銀店街は大丈夫だと思っています。

 今回高野さんにお話を聞き、昔の人たちのまちに対する思いの強さを感じることができて自分の小倉の街に対する愛着が深くなりました。

 

取材担当:田口晶仁(KTT協力員)